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ホロライブ 2024.04.08

【寄稿】「VTuberは”気持ち悪い”。だから何?」 MV『ビビデバ』から読み解く星街すいせいの挑発

3月23日にリリースされ、2週間足らずで約840万再生を突破した、星街すいせいの新曲MV『ビビデバ』。そのMVの内容に多くの視聴者が驚きの声をあげている。実写映像とアニメーションを組み合わせた独特な作品で、星街すいせいの圧倒的な歌唱力も相まって、コメント欄には「革新的な作品」「中毒性エグすぎる」「映像技術と発想力に感動」といった感想が非常に多く寄せられている状況だ。さらに、これまで星街すいせいやホロライブを知らなかった視聴者層にも人気は広がっており、TikTokなどでもダンスパートを再現したショート動画が数多く投稿されている。

サビのダンスの振り付けや、出演者のドタバタとしたやりとりなどポップな部分はありつつも、どこか心の奥底をざわつかせるような不思議な魅力を持つ本作。一体、なぜ、こんなにも皆が『ビビデバ』から目が離せない状況なのだろうか? 今回はこのMVの魅力について、アニメーション作家/脚本家で、『(実在しない)切り抜きチャンネル』などにも参加するヌマタ氏に寄稿してもらった(本記事は、noteに公開された記事に大幅加筆、再構成を加えた内容となります)。

VTuberの前に立ちはだかり続ける「二次元と三次元の壁」

思わず泡を吹いて倒れそうになりました。

圧倒的な情報量、そして「ポップ」さ。『ビビデバ』は登場した瞬間から、これまでのVTuberのMV史を塗り替える、しかも何段飛ばしで先へ進めてしまう、革新的な内容です。あまりにも、あまりにも、面白い作品です。

まず、映像としてぶっちぎりにユニークなこと。これまで(星街すいせいが所属する)ホロライブは、商業アニメーション風のミュージック・ビデオを多く作ってきたVTuber事務所なのですが、そこから派生したにしても、すさまじい突然変異です。

そしてもう1点、ここが重要なのですが……。このMV自体が、「VTuberがVTuberとして存在している限り、逃れようのない『気持ち悪さ』」を、見事にカリカチュアライズ(風刺的な誇張)していたことです。

そもそも「VTuberを『気持ち悪い』」と思う感覚に、ピンとこない方もいらっしゃるかもしれません(このような言葉を使うこと自体に不快感を持ってしまう方には、強めの表現を使ってしまって正直ごめんなさい!)。一方でVTuberが、そのカルチャーに馴染みのない方から浴びせられる嫌悪感というのは、間違いなく存在します。そういった感想は、大きく以下の2つのタイプがメジャーであると思います。

・そもそもアニメ調の絵自体に「気持ち悪さ」を感じてしまうこと。しかも、それがリアルタイムで生きているかのように、こちらを向いて話しかけてきたり、動いていたりする「気持ち悪さ」も加わること。

・結局、顔出しをせずに人気を獲得したいと考えている「ずるい人たち」じゃないか、といった嫌悪感。

前者は、いわゆる「不気味の谷」(人間に近づきすぎる「人間ではない」ものを、人間は「気持ち悪い」と感じること)現象ですね。そして後者は……あまり説明しなくても大丈夫かもしれません。こういった、VTuberに特に興味を持っていない方からの様々な「気持ち悪い」(あえて「偏見」とは言いません)……VTuber”業界”風に言えば「二次元と三次元の壁」に対して、バーチャルYouTuberたちはこれまで苦闘し続けています。

「気持ち悪さ」をあえてデフォルメする

VTuberの実質的な始まりであるキズナアイ(2022年2月無期限スリープ)は、常に二次元と三次元の壁を突破する「ミライ像」を提示していました。

中田ヤスタカ提供の『AIAIAI』ミュージック・ビデオで描かれた「ミライ像」は特に印象的です。「枠の中」で踊るバーチャルの存在・キズナアイと、「枠の外」で踊るダンサーたちが、クライマックスで重なり合う(しかしそれは同時に、映像のマジックでしかない)演出。あっと息を呑んだその瞬間を、私は未だ昨日のことのように思い出せます。「バーチャルと人間が共存」する、キズナアイが望んだ世界……そんな夢と信念が、ここには詰まっていました。

一方、やはり「バーチャルYouTuber」が「界隈」の外に出ていくというのは、なかなか難しいことのようです。

例えば、早くから実写と3Dモデルの合成などで「市井の女の子」であることを強調し、「私たちを特別な存在とは思わないでほしい」というメッセージを発してきた樋口楓さんも、2021年のインタビューの際に、「VTuberファン以外の層にアプローチ」してゆく難しさを語っています。VTuberは「繊細」な存在だ、という樋口楓さんの表現は、非常に正直なものだと思います。

その「繊細さ」からくる「先入観」を打ち消そうとする工夫もなされています。音楽ユニットのNornisは、「歌1本で戦う」ために、メンバーである戌亥とこさんや町田ちまさんのビジュアルをあえて表では使用せず、紹介文からも「VTuber」というワードを排除することで、一般に広く間口を広げようとするアプローチを選択しました。

ごく最近では、むしろぽこピー(甲賀流忍者!ぽんぽこ&オシャレになりたい!ピーナッツくん)やおめシス(おめがシスターズ)のように、着ぐるみや顔だけのAR合成を用いてそのまま現実社会に打って出る、「そもそもVTuberと人間は同じ存在です」という前提のアプローチも珍しくなくなってきています。

その辺りの「”現実”進出」な近況を分かりやすくまとめた記事がありましたので、こちらもご紹介しますね。

そして、これらはごくごく一例に過ぎません。このように様々なVTuberたちが、様々な方法で、「バーチャルと人間は同じような存在なんだ」、「共に並び立てる存在なんだ」と、「決して気持ち悪くはないんだよ」と、実に涙ぐましい努力を重ねながら伝え続けてきていたわけです。

しかし『ビビデバ』は、これらと全く逆のアプローチをとっています。つまり、VTuberがVTuberである限り付きまとい続ける「気持ち悪さ」を、あえて作中で強調(デフォルメ)しているのです

具体的に見ていきましょう。

本作のアイデアは、主に『ロジャー・ラビット』(1988年)からヒントを得ていると思われます。

実写とアニメーションの融合はこれ以外にも多数の名作がありますが、「アニメキャラクターが本当はこの世界に生きており、アニメーション作品は彼らの演技をカメラで撮影しているだけなのだ」という『ロジャー・ラビット』のコンセプトを、『ビビデバ』は大いに参考にしているはずです。また単なるアイデアに留まらず、「シンデレラ」のモチーフ(『ロジャー・ラビット』の舞台はディズニー版『シンデレラ』が制作された1940年代のハリウッドが舞台)、そして海外トゥーン調のキャラクター・デザインからも、その影響は容易に読み取れます。

さて、これまで「VTuberと人間の共演」といえば、3Dモデルを実写を巧みに合成したAR(拡張現実)的アプローチがメインでした。この分野では(登場した瞬間から)最前線である花譜さんは言うまでもなく、2番目の動画のようなリアルタイム合成ライブや、個人VTuberの活用例(こちらは、三珠さくまるさん)まで、その例は枚挙にいとまがありません。逆に言うと、これ以外のアプローチでの表現はほぼ見られない状況かもしれませんね。

しかし本作は『ロジャー・ラビット』のスタイルを選択し、あえて自分の姿(モデル)をアニメ調の2Dイラストにデフォルメすることで、「VTuber」と「人間」は全く別々の存在であることを強調しています。「私たちは共に並び立つ存在なんだ」、ではなく、バーチャルをひたすら「異物」「異形」として描くこのアプローチは、そもそも面白いですし、メインストリームのVTuberのMVとして、非常に画期的だと思います。

それだけではありません。本作は全体を通じて、バーチャルの「異物感」「異形感」を実質的に、そして生理的に喚起させる(=「気持ち悪い」と思わせる)、あらゆる工夫が施されているのです

脳に生じる違和感をフル活用する

本作で使われているのは、「ロトスコープ」という技法です。

Waking Life Trailer from Tommy Pallotta on Vimeo.

「ロトスコープ」は、まず実写で人間(など)の動きを撮影し、その上から重ねる形でアニメーションの作画を行うというものです。古くは1930年代のディズニー・スタジオや、そのライバルであったフライシャー兄弟が特に好んで用いた手法です。それこそディズニーの『シンデレラ』(1950年)をはじめ、世界初の長編アニメーションである『白雪姫』(1937年)などでも効果的に使用されています。

この技法は近年でも頻繁に使われています。日本では、まさに今放送中のNHK連続テレビ小説『虎に翼』のオープニング(アニメーション作家のシシヤマザキさん)が「ロトスコープ」の最たる例です。そして実写の「生々しさ」をあえて残した例で言えば、やはりテレビアニメ『惡の華』が有名でしょう。

漫画原作があるにも関わらず、生々しい人間をデザインや作画に取り入れた本作は、「アニメなのに、人間の動きの生々しさが加わると何とも”不気味”になる」という「ロトスコープ」ならではの特徴を、人間の不安定さや不安、悪意(そしてイノセント)を描くために存分に生かした作品でした。

『ビビデバ』はこの技法を用いることで、作品に二つの効果をもたらしています。

一つは、あえてこの伝統的な技法を用いることで、アメリカン・アニメーション黄金期の作品にリスペクトを捧げていること。正にモチーフになった『シンデレラ』をはじめ、ロトスコープは特に用いられていない『ロジャー・ラビット』もまた、このアメリカン・アニメーション黄金期を舞台とした作品ですから、こういった外せない文脈をしっかり意識して技法が選択されているわけです。

もう一つは、この「ロトスコープ」を”極端に”使ったときにもたらす「脳に生じる違和感」をフル活用していることです。

面白いのが、こちらのメイキング映像。身体と頭をあえて別々のアニメーターに依頼して作画されていることを示しています。

鋼の錬金術師 FULLMETAL ALCHEMIST』などで知られる入江泰浩監督のツイートも、とても参考になります。

人間の動きそのものをトレスすることで、「絵はアニメキャラクターなのに、動きは人間そのもの」、「人間の動きにしか見えないのに、頭の部分は貼り付けたようにアニメの顔がくっついている」という、極めて不自然な映像が生まれます。まるで右目と左目で見ているものがズレているような、非常に居心地の悪い「違和感」が映像に巧みに織り込まれるのです。

白眉は最初のサビです。まばたき一つしないアニメキャラクターたちが、張り付いた顔で「人間みたいな」気取ったダンスを踊っています。艶めかしいリアルな人間の動きと、その上にお面のようにペッタリとくっついたアニメキャラクターの顔。……じっくり見れば見るほど、なかなか奇怪な映像ではないでしょうか。

ロトスコープというのは実に多彩な技法で、もっと自然なアニメーションらしい動きを表現することも可能なのですが、本作ではあえて人間らしい「生の動き」が残されています。それはつまり、もう少し埋められたかもしれない「不気味の谷」をあえてそのままに、いやむしろ強調して、「アニメにも人間にも、そのどちらでもないものにも見えてしまう」という「違和感のある映像」を、ここでは意図的に作り出しているのです。

そして、です。これこそが大切なポイントなのですが……。この「違和感」って、よくVTuberに浴びせられる「気持ち悪い」の一つ……見た目はアニメキャラクターなのに中に人間がいる、という「不気味の谷」的な構図そのものだと思いませんか?

さらに凄いのが、この”裏側”まで描かれることです。

華やかにキラキラ輝くアニメキャラクターたちの世界。その反対側を見れば、みすぼらしい舞台裏で一緒に――何の疑問も持たずに――ダンスを踊っている現実側の「人間」たち。異形の存在であるアニメキャラクターに、ニコニコしながら「踊らされている」存在! 私が一番悲鳴を上げそうになったシーンです。

ニンゲンの真似(踊り)をしているアニメキャラクター。そしてその裏側で、その「違和感」に麻痺したまま同じように踊らされ、熱狂している人々。それはまるで、生配信で、あるいはリアルライブで、VTuberのパフォーマンスに熱狂する人間の姿のようです。そして、これこそまさに、VTuberの世界の「外側」の人びとが「ああ、気持ち悪い!」と思いがちな「アニメキャラクター”なんか”に熱狂している」ファンの構図そのものではありませんか!

このようにロトスコープの特性をフル活用して象徴的に描かれるのは、「アニメでもリアルな人間でもない」VTuberという存在の異形さであり、さらにそれを現実の映像と接続することで、「その不気味な存在に踊らされる人間たち」という構図まで映し出すことに見事成功しているのです。

あえて「不気味の谷」を掘る試み

本作のもうひとつユニークな点として、全編に渡り、いわゆる360度カメラが用いられていることが挙げられます。

舞台は撮影スタジオなのに、「皆が見ている」はずのメインカメラの目線は、開始数秒で早々に外されてしまいます。
代わりに描かれるのは、「普段はカメラに映らない」裏側――360度カメラが効果的にフォーカスする「空間」そのものです。あちら側、こちら側をはっきり区別するその構図は、「二次元」と「三次元」の境目を、断絶を、否応なく観客に意識させます。これもまた「両者は並び立て」ない、全く異なる世界の存在であることを強調するかのようです。

両者がその境界で交わっているときは、カメラの向きもその中間付近に据えられます。

そしてカメラの機械的なパン(横移動)は、まるでこの撮影スタジオに仕込まれた監視カメラのよう。特にこのサビ部分では、今ここで起きている現象(=アニメキャラの不気味なダンスに熱狂する人間たち)を、極めて冷静な目線で客観的に描くことに成功しています。

ロトスコープ、身体と顔を描き分ける独自の作画、そして360度カメラの客観的で冷たい目線。さまざまな技法を巧みに組み合わせて、この「違和感」のある映像が――「不気味の谷」をあえて強調した映像が組み立てられています。そしてそれらの表現を通して、マジョリティな方々から否応なく投げかけられる「VTuber」のステレオタイプな「気持ち悪さ」を見事にカリカチュアライズしているのです。

さらにいえば、本作で「不気味の谷」を強調している工夫として、キャラクターデザインにも注目です。

世界の大きな潮流である平成リバイバルな(イマドキな言い方をすると、Y2Kな)アニメ(Anime)キャラ、冒頭で触れた『ロジャー・ラビット』風トゥーンのイメージ、そしていま大いに盛り上がっている「 #indie_anime 」的な文脈(脱・商業的な、SNS上&動画サイト上のオルタナティブなアニメーションのムーブメント)をそれぞれ巧みに取り入れたヴィジュアルです。そもそも星街すいせいはVTuberですから、2Dイラストのデザインが既にあるわけですが、あえて現代風の(そして「星街すいせい」的な)それを用いず、オールドファッションな「お目目の大きい女の子」を使っているわけです。これは、単体では可愛らしいのですが、ひとたび実写に合成されると「アニメという”異物”」感を非常に際立たせる効果を発揮します。

本作の合成技術は素晴らしいです。全体の構成、動きのアイデア、そして作画、撮影処理、編集技術――すべてが非常にハイレベルで、これらのアニメキャラを見事に映像になじませています。そしてその結果、実写の中でアニメキャラクターが人間のように動いているという「違和感」が、むしろますます強調されていくのは特筆に値します。

本作でアニメキャラクターは、現場でそれなりに大切にされているように見えます。人間のほうがよっぽど非人間的な扱いを受けていると言えるでしょう。ささ、どうぞここにお座りください、とアニメキャラクターが気を遣われ、それに申し訳なさそうにペコペコ頭を下げながら座るカットは、なかなか意図的です。

そうして「下の立場」の人間にたっぷりと感情移入したアニメキャラクターは、やがて監督に激昂し、履かされていたガラスの靴を投げつけます……こんなにも醜く顔を歪ませながら(よく考えなくても、自分の?スタッフの処遇の悪さに怒ることと、いくら相手からとはいえ靴を投げつけることは何も関係ないですし、ただの彼女の暴力ですよね)。

取っ組み合いの喧嘩の果てに、アニメキャラクターは現場を投げ出して、勝手にスタジオを後にしてしまいます。持っていたガラスの靴を脱ぎ捨てる描写は、もちろん素直に「与えられた、押し付けられた役割」から自由になったカタルシスを描いているとも言えますし、同時に、そんなものを脱ぎ捨てるだけで私は自由になれるのだ、という、アニメキャラクターのうぬぼれた思い上がりをも感じさせます。

そしてラストシーン。自ら「シンデレラ」であることを脱ぎ捨てたアニメキャラクターは、人間と同じ洒落た洋服をまとい、満足そうにダンスを踊ります。しかしここにあるのは、余りにも商業的な映像や広告のヴィジュアルで見たような、平凡極まりない、よくある凡庸なダンス映像です。VTuberというシンデレラの魔法を解かれてしまった(自ら解いてしまった)存在は、本人なりの「自由」をここで謳歌しているけれど、客観的に見れば、ただの「量産型」な大多数に埋もれてしまうのでした――何という皮肉な結末でしょうか。

……いや、むしろ、冒頭で触れたような、VTuberのパフォーマンスへ「ズルさ」を感じてしまう人たちからのイメージはこちらかもしれない。「君たち、アニメの皮をかぶってチヤホヤされているけど、ひとたびそれがなくなったら結局、ただの平凡でつまらない人間なんだろう?」と。

そして実際、ここに映っているのは、もはやアニメの頭(と素肌の手)がくっついただけの、ただの”人間”なのです。

星街すいせいのMVである、ということ

このように『ビビデバ』は、VTuberが長らく晒され続けて来た「君たちって気持ち悪いよね」を具体的に構成するありとあらゆる要素を、「2Dアニメ対実写」という構図にすることで真正面から作品に取り入れ、誇張し、あげく自虐的な風刺へ昇華してたっぷりと織り込んだ、それでいて圧倒的にスタイリッシュでユニークな映像に仕上げてみせました。

ここに、「アニメキャラクターと人間が共存している素敵な世界」を表現しようなどという意図は存在しません。むしろバーチャルという存在の「気持ち悪さ」を、そして「VTuber」のステレオタイプな偏見を、極めて露悪的に、強調して描いています。あまりにも見事にデフォルメし尽された、悪夢のような「VTuberの気持ち悪い」の集合体です。

しかし、このMVの「気持ち悪さ」には、間違いなく中毒性があります。何度も見てしまいます。ハマってしまいます。理由は一つです――とても、ポップだからです!

私はこの「価値の転換」に衝撃を受けました。これまでさんざん皆で、さまざまなアプローチで消そうとしたり、覆い隠そうとしたりしていた「VTuber」という存在の「違和感」を、「壁」を、これほどのメインストリームで堂々とキッチュ(※一般的な美意識とは異なる悪趣味なもの)に表現してしまえ、という発想自体、全くありませんでしたから。ああ、こんな鉱脈があったなんて!

重要なのは、これをもしVTuberではないアーティストが発表していたら、という点です。VTuberのステレオタイプを醜く誇張して、あざ笑うかのような内容――。ともすれば、炎上の火種となっていたかもしれません。

しかし、これは、星街すいせいのMVなのです。よりにもよって、トップアーティストVTuberである、星街すいせいなのです。

星街すいせいは、VTuberとして初めて「THE FIRST TAKE」に出演したアーティストです。

正直に告白すれば、私はそこまで星街さんの活動をつぶさに追っている訳ではありません……が、それでもこの「THE FIRST TAKE」への出演には大きな納得感がありました。数々のオリジナル曲とライブパフォーマンス、キャリアを通じた「音楽」へのストイックなアーティスト活動。さらに後述の通り、「VTuberに関心のない外側の人たち」に向けてめちゃめちゃ発信している方……というイメージがとても強かったからです。彼女ならこのような場でも、「VTuber」としてでなく「ミュージシャン」として見てもらえる可能性がある、その”挑戦”にふさわしい、とても良い人選だな、と。

星街さんはこの動画のコメント欄で、<すこし変わった見た目をしていますが、歌を歌ったり、楽しいことをしている人です>と挨拶しました。これはVTuberの自己紹介として、とてもコンパクトで抑制された良いものだと思います。「リアルなアーティストが立ってきた舞台にVTuberが出演すること」に対し、やはりそれなりのハレーションも起きていたと記憶していますが、あらゆる外部からの声に対して、この柔らかな挨拶。そして大舞台にも「ストイック」に凛と立ち向かったその姿は、歌声が入ったあの素晴らしい瞬間も含めて、私だけでなく多くの方にとって印象的な場面であったと思います。

最近では、『アイドルマスター シンデレラガールズ スターライトステージ』(中居正広のCMが有名な『デレステ』ですね)とのコラボレーションで話題をかっさらったのもこの方です。

あらゆるIPとのコラボで知られる『デレステ』ですが、シリーズ史上初めて「ゲーム内のアイドルとしてそのまま星街すいせいが登場する」という、コラボというより「期間限定加入」のような大々的な内容となりました。ある意味「THE FIRST TAKE」とは逆で、今度は完全にスタンドアロンなキャラクター(=現実とは切り離された世界の人々)たちの中に「現実に生きている」VTuberが入っていくという形ですね。その”閉じた”世界を信じ守り続けてきたファンの方からの抵抗感は、やはり想像するに余りあります。一度でも加入してしまえば、彼女もまた「シンデレラガールズ」と言えてしまう可能性もあるわけですから。

そしてその恐怖はまた、古くからのアイマスの大ファンで知られる星街さんが一番感じ取っていたことかもしれません。そして大ファンだからこそ、成しえたこともあります。先日行われた星街さんの6周年記念ライブに、『デレマス』から高垣楓さんをサプライズゲストとして迎えたのです。

共に<すこし変わった見た目をしている>アイドル同士ですが、デビュー後の(リリース後の)キャリアでは倍以上の差がある二人。彼女と比べたらさすがにまだぺーぺーの星街さん、そして”先駆者”の先輩として余裕すら感じさせるMCとパフォーマンスを繰り広げた高垣さん。互いへの誇り高いリスペクトに満ちた、とても感動的なステージでした。そしてこれもまた星街すいせいの、「外側」への(ひとつの)見事なアンサーであったと言えるでしょう。ちなみにこのライブが「ビビデバ」の初お披露目の場でもあったのですが、「シンデレラ」モチーフかぶりは果たして偶然か否か……。

これらと並行して活動している音楽ユニット「Midnight Grand Orchestra」も面白いです! 相方の音楽家・TAKU INOUEさんを「二次元」に呼び寄せたり、逆に星街さんを「三次元」へ送り出したり、いっそ二人ともハイパーリアルな世界へ飛んで行っちゃったり……と、まさに「二次元と三次元の実験場」のようなユニークな試みが毎回行われています。これだけの挑戦的な活動は、やはり注目を集めるのでしょう。NHK総合の正月ゴールデン特番(となる予定でしたが、2024年能登半島地震の発生により幻となりました)「あたらしいテレビ」への出演も、私はとても印象的でした。

そして個人的にぜひ紹介したいのが、こちらのショート動画。扱っている「バーチャルあるある」が、明らかに「VTuberにあまり親しみのない方」に向けて作られているのです。VTuberとしてこれだけの華やかなキャリアのある方が、です。「ああ、この方もまた、とても問題意識の強い、外側に向けて発信している方なんだな。そしてそれを背負う覚悟のある方なんだな」と感じたことを、よく覚えています。

こんな感じに星街すいせいさんは、徹底的にVTuber界隈の「外側」と戦っている人という印象が、少なくとも私には強烈にありました。心無いことを言ってしまえば、あえて最前線に自ら立ち、本来は避けられるはずの弾丸も受けまくっている方……ですらあるような。

そのような活動をあちこちで続けていれば、この記事で散々リストアップしてきたような、そしてこの『ビビデバ』のMVで露悪的に強調したような、そんな「気持ち悪い……」の視線に、言葉に、偏見に、あらゆる場所で晒され続け、そして引き受けてきたことは容易に想像できます。そんなチームが(あえて「チーム」と言いますが)知恵を振り絞った果てに送り出した、2分51秒の痛烈なカウンターパンチ。

私は考えたこともありませんでした。「VTuberって気持ち悪いよね」という、外側からの心ない圧力に、こんな挑発的な解答方法があったことを。

「動く絵」である自分自身の特徴をあえてデフォルメ(強調)し、堂々と人前に出る力強さを。

差別と偏見を逆手にとり、それを演じることで逆にその「壁」を壊す方法があることを。そして、考えてみれば、それは長い人間の歴史の中で、様々生み出されてきたカウンター・カルチャーに、確かに連なるものであることを。

「自分が『気持ち悪い』自分のまま登場する、それで何が悪いの?」と。

ええ。私たち、「気持ち悪い」ですけど、何か?

本作のような「カウンター」作品は、やはり文化として成熟してこないと、なかなか出てこないものであると思います。つまり『ビビデバ』の成立は、それだけVTuberという小さなカルチャーが、年月と経験を重ねて来た証でもあります。星街すいせいは、決して1人でここにたどり着いているわけではありません。そこも個人的に感動したポイントでした。

ところで『ビビデバ』のMVから、私は二つの作品を思い起こさせました。

一つは、みきとPの「ロキ」です。

ボーカロイドのトップクリエイターであるみきとPが、自ら「ボカロP」と「歌い手」たちのリアルを自虐的に、そして生々しく風刺した(そして鼓舞した)楽曲です。その過激な内容はもちろん、まさに曲中で名指しされたような「歌い手」たちが、「ノリノリでこのカヴァー音源をアップしていく」という皮肉な伝播の仕方をしたことも、とても印象的でした。

「ビビデバ」もまた、MVの作中でここまで風刺的に描いているダンスを、あえてVTuberたちに「させ」て(モーションデータまで配布して)、思いっきり拡散させようと試みているところが実にイジワルというか、正に「ロキ」と似たコンセプトを感じさせます。

もう一つは、チャイルディッシュ・ガンビーノの『ディス・イズ・アメリカ』です。

アフリカ系アメリカ人の苦境を衝撃的に描いたミュージック・ビデオは、本国アメリカのみならず、全世界でまたたくまに話題となりました。2019年のグラミー賞では最優秀レコードをはじめ、ミュージック・ビデオ賞なども受賞。ちなみに監督は、同じくアメリカでマイノリティにあたる日系人のヒロ・ムライです。

さすがに『ディス・イズ・アメリカ』と『ビビデバ』を同じように扱うのは少々気が引けますが、作中を通じる「オリジナル・カルチャー」へのリスペクトとその向き合い方、全体を覆う不気味さとスタイリッシュさ、そして被差別階層からの叫びに似たメッセージは、私は「共通点だ」と言っても過言ではないと考えます。さらに言えば、俳優・コメディアン・ミュージシャンとして脂ののりきった当時のチャイルディッシュ・ガンビーノと、今の星街すいせいには、どこか重なるものを感じます。もしかすると星街すいせいは、VTuber界の「ブラックミュージック」なのかもしれませんね。

VTuberが世界へ討って出るためには、時にVTuberであることを隠したほうが良い。……これもまた一つの、何も間違っていない回答でしょう。しかし2024年。全く新しい風穴がここに空いたことを、もっと私たちは評価するべきではないでしょうか。


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