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業界動向 2019.10.15 sponsored

藤井直敬の「現実を科学する」 第一回:そもそも、科学とはなんだろう?

これから僕が3回に分けて書こうとしているテキストのタイトルは、「現実を科学する」です。そもそも、現実ってなんでしょうか、科学ってなんでしょうか。ここでは、科学することのおもしろさ、当たり前だと思っている現実を疑う楽しさについてみなさんにお伝えしたいと思います。

藤井直敬/Naotaka Fujii
1965年生。株式会社ハコスコ代表取締役。眼科医、医学博士。デジタルハリウッド大学の大学院教授や、一般社団法人XRコンソーシアムの代表理事も務める。主な著書に「つながる脳」「拡張する脳」など。

デジハリってどういうところ?

僕が教授を務めているデジタルハリウッド大学(デジハリ)の大学院は、専門職大学院です。修士課程を通じて「修士」や「マスター」と呼ばれる学位を習得するところです。

デジハリの面白いところは、大学院生の5割が社会人大学院生であることです。もちろんデジハリで学部生として4年間過ごし、そのままデジハリの大学院に入る人もいるでしょう。しかし実際は少数派で、8割近くがデジハリの“外”からやってきます。

ですから学生の多様性にはびっくりすることが多く、他の大学院では見られない色々な人が修士課程に集まってきます。すでに博士号を持っている医師、現役の政治家、そして大学を出たばかりで20歳半ばの留学生が並んで授業を受けています。

社会人大学院生はそれぞれの職種でプロフェッショナルとして働きつつ、大学院に来て勉強しています。既に働いているプロフェッショナルがなぜ大学院にやってくるのか? 初めこそ不思議に思いましたが、聞いてみるとそれぞれ理由はあるものの、共通しているのは何かを作り出したいという強い気持ちでした。しかし、自分にはそれを作るためのスキルが無い、だからデジハリに来てそれを学ぶのだ、という事のようです。

通常の大学院は学位を取得することが目的ですが、デジハリの大学院生はそうではない。専門職大学院ですから、大学院の目的がスキルアップのためというのは理にかなっています。時間のない中で、眠い目をこすって授業に出るためには、そのようなはっきりした目的意識が無いと続けられないのは当然でしょう。

大学ってなんで行くの?

では、学部や博士課程は何のために行くのでしょう? 2019年の今、専門職大学というスキルを身につけるための大学が始まろうとしています。それとは異なる既存の大学はなんのためにあるのでしょうか?

僕は医者になりたかったので、医学部に入りました。僕の大学時代はある意味専門職大学みたいなもので、2年間にわたって一般教養を学んだ後、医者に必要な基礎知識を4年間で一通り教わり、国家試験に通れば晴れて医者になれるというものです。

ですから、それ以外のことにはあまり興味はなかったですし、特に医療以外のことを深く勉強をしたという記憶がありません(もしかすると、分野を問わずほとんどの大学生と同じかもしれません)。大学のカリキュラムに沿って、言われるがままに単位を取って卒業する。考えてみれば当たり前のことです——大卒の資格を得るだけなら、それ以上のことは必要ありませんから。

僕はその後、神経科学を大学院で学んで博士号を取り、マサチューセッツ工科大学(MIT)で研究員をやり、理化学研究所で自分の研究室を立ち上げることになりました。実は、自分の研究室を立ち上げる時に一番苦労したのは自分の研究テーマをどのように外の人たちに説明すればいいのか、という事でした。

MITで研究員だった時は、ひたすら研究だけやっていればよかった。「研究者として、自分はなぜそれをやらなければいけないのか?」を考えたことがほとんどなかったのです。なぜそれを研究するのかという強い理由、別の言葉でいうなら哲学が必要になりました。

何かのテーマに基づいて研究予算を取り、研究するということは、それに伴う責任が発生します。ただ興味に任せて研究するというのが研究者の本性だとしても、研究室のリーダーは他の管理者、もしくは人類に対して資する責任が発生するんだろうなと思いました。これは自分のボスから言われたわけでは無いですし、理研から言われたわけでもありません。しかし、実際に自分が億単位の研究予算を動かすようになると、ついその意味を考えてしまうようになったのでした。

社会への貢献とは

誰のために、何のために研究をするのか——とても難しい問題です。

例えば「何かの病気に効く薬を開発する研究」は分かりやすいケースです。困っている人がいるのですから、その人たちを助けるという大義があります。それについて正面から「やめろ」という人はいないでしょう。

 

しかし「症例数がたいへん少ない稀な病気で、世界に100人くらいしか患者がいない。治すには1000億の研究費が必要」だとしたらどうでしょうか? 素直にYesと言えるでしょうか? おまけに「薬が一人あたり年間5000万円で、その高額医療費用は健康保険が生涯払い続ける」としたらどうでしょう?

さらに、その薬ができるまでに大量の試行錯誤が発生します。有望だと思われた研究がそれに続く研究で否定されることは日常茶飯事ですし、数百億の費用をかけても最後の最後の臨床治験が失敗することさえ珍しくありません。

こうした「失敗した研究」は無駄なのか、税金から支払われている研究費をそのような研究に使うことは正しいのか——日本ではかなり前から、こんな議論がされています。限られた研究予算を効率的に使うため、成功しそうなプロジェクトを選択し、そこに巨額の予算をつける。いわゆる「選択と集中」政策が行われてきました。

が、それは誰が考えても分かると思いますが間違っています。これは「宝くじの一等を先に見定めて、その一枚だけ買えば無駄なく当たるだろう」という理屈と同じです(日本の研究レベルや世界的プレゼンスが過去20年で大きく低下しているのはこのせいです)

研究というのは、偶然の産物であることが多いのです。ロジカルに考えることで辿り着ける到達点も当然ありますが、社会を変えるような大きな飛躍が実現されるときは、なんらかの偶然の力を借りることのほうが多いのです。わたしたちの社会は、そのような偶然見つかった発見の上に成り立っているのです。

科学者は「1+1=2」のように、ゆるぎない厳密な論理の上に成り立った世界で研究していると思っている人も多いかもしれません。ある意味ではそれは間違っていません。しかし、それは環境や条件が異なると必ずしも正しいという訳ではないのです。科学は限られた条件の範囲内でのみ、有効で再現可能な論理を構築することができます。その範囲を超えた時には、また別な論理が必要とされてくるのです。

答えのない世界

そのように考えると、無限の“問い”が現れてきます。無限の問いには無限の答えがあります。ある問いについての答えは、別の問いへの答えにはなりません。科学者は答えのない世界のなかで、何をどうすれば社会やヒトに対してインパクトのある研究ができるか、そして自分自身が納得できる研究とは何かを四六時中考えている人達なのです。そのような科学者たちが研究や開発を行うことで、私達の世界は少しずつ進んできたのです。

改めて、科学とはなにかについて考えてみましょう。科学とはなんなのでしょうか? 調べてみれば色々な定義が出てきます。世の中の真理を語ることでしょうか? なにかの事象について、その因果関係を説明することでしょうか?

科学の意味については、実は科学者の間でも長い間議論されてきてきました。20世紀前半の哲学者であるカール・ポパーは、「科学とは反証可能性をもつものである」と定義しました。これは「どのような手段によっても間違っていることを示す方法がない仮説は、科学ではない」という考え方です。


(哲学者のカール・ポパー。著書『科学的発見の論理』などで知られる。20世紀前半~において、科学哲学などの分野で活躍した。引用:Flickr: The Commons

たとえば、神の存在を考えてみると分かりやすいでしょう。多くの例で神は絶対的なものとされますが、その存在を確かめる方法はありません。奇跡を語ることは可能ですが、それを再現し、その奇跡を検証することはできません。つまり反証の方法がなく、その余地が与えられていないことから、神の存在は科学的な議論の俎上に乗らないことになります。

ここで「反証可能性が担保されていること」の意味を考えると、私たちが間違いなく科学的に確かだと思っている現在の世の中の全てについて、実は完全に間違いであり、その内容が全て書き換えられる可能性があるということになります。

正しさについて

高校生までは、教科書のすべてを信じてもあまり実害はないかもしれません。しかし、大学以降のあらゆる場面で遭遇する知見は、常に間違っている可能性を含んだものだということを知っておかなければいけません。大学に行くということはそのような書き換え可能性が常に存在する世界とどのように向き合うか、ということを学ぶ場所だと僕は考えています。目の前にある全てを疑ってかかる技術を身につける場だと思います。

ですから、学校や研究室で何かの課題を与えられたとしても、もしくは自分で調べたい課題が見つかったとしても、それに対する絶対的に確かな答えは存在しないことを前提とするべきです。みなさんが科学を信じるのであれば、どこまで行っても最終的な解答を得ることはできません。それでも、科学者は、多くの反証に耐えられるように地盤を固め、信じられる領域を広げてきました。学校のテストで求められている解答は、そのような疑いようのない範囲に条件を絞った条件付きの解答であるということを理解しましょう。

その事を思うと、逆に学校や書籍で学んだ事柄を、正しいと信じ込んで強く主張することも慎重にすべきだということがわかるかと思います。みなさんが学ぶ科学的知識は、どれだけ盤石だと思えていても、一歩踏み出すだけで脆弱な地盤に乗っているものである可能性があります。これは日常生活で忘れがちな事ですが、大学に進む人たちは常にこころに深く刻んでおくべきことなのです。

第2回に続く)

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