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業界動向 2019.11.11 sponsored

藤井直敬の「現実を科学する」 第三回:“新しい現実”と向き合うには?

前回は、わたしたちの現実というものは脳がつくりあげたもので、主観的世界の中の環境と他者はもともと一体だったのかもしれない、という話をしました。

ヒトは環境を改変してニッチ(生存可能な領域)を拡大することができる生き物ですから、わたしたちは環境をテクノロジーで改変することができるということになります。

テクノロジーと環世界

ヒトによる環境の改変は、いろいろな形で行われてきました。遺伝子操作で作られた野菜や果物、遺伝的に同一のクローン生物、治水・発電のための巨大ダム。ヒトの作ったテクノロジーはとにかくあらゆるところに広がっています。


(世界初のクローン羊「ドリー」。体細胞のクローンを使って生み出された)

20世紀中頃から利用されるようになった電子式計算機の出現以降、テクノロジーは「情報」へと影響を強く及ぼすようになりました。もちろんそれ以前も、ヒトが作る情報は絵画や書籍という形で一般に流布・蓄積され続けてきました。ですが「書籍の中身は情報であり、そのコンテンツはどのような形で利用されても同じ意味をもっている」という感覚を、多くの人々が(実感として)持つようになったのは、21世紀に入って以降かもしれません。少なくとも今年54歳のぼくは、クラウドデータをあらゆるプラットフォームで同じように扱えるようになるまで、理屈では分かっていても、腹の底から実感することはできていませんでした。

書籍や音楽、絵画などは全てデジタル化することが可能で、再生環境によって多少の体験の質の変化はするかもしれませんが、コンテンツとしての意味や価値が変わることはあまりありません。「そんなことはない、ライブの臨場感は現場じゃないと味わえないじゃないか」と言われたりしますが、それは単純に「ライブ会場の情報すべてを情報化できていない(例えば振動や音響など)」か、「記録された情報が正しく再生ができていない」というだけのことです。

抽象的なデータとしてのコンテンツは、放置しておいても基本的に劣化しません。劣化するとしたら紙やCDといったメディアのほうです。このような「劣化しない情報」は多様な形で私達の日常に溢れていて、もはや環境の一部になってきました。そして、ヒトの五感を操作できるテクノロジーは、情報の意味や、現実の意味を大きく変え始めています。

体験とはなにか

みなさんが何かを「体験する」もしくは「体験したい」と言う場合の「体験」とはなんでしょうか。おそらく、みなさんが何かを体験すると言う場合、それは「現実空間の中で、実際に自分の身体を動かして、何かのイベントに参加する」という意味なのだと思います。

しかし、テクノロジーは「体験」の意味を変えつつあります。

わたしたちの「体験」は、ここまで話してきたように、基本的に主観的なものです。絶対的な何かが保証されているわけではありません。すべてが主観的な世界で私達が生きているのですから、畢竟「体験」も主観的なものにならざるを得ません。体験を作っているのは私たちの脳です。気分の良し悪しは脳のはたらきによるものですし、ご飯が美味しいのも、恋愛でドキドキするのもすべて脳の仕業です。

そう考えると「体験の意味を理解したいのであれば、脳に働きかければよい」ということになります。一見自明なように思えますが、自分自身の脳と向き合う作業を実際に、地道に行っている人はあまりいません。なぜなら、それに必要なツールが揃っていないからです。主観的な世界に閉じ込められているわたしたちが、脳という自分自身を構成する仕組みをその外部から客観的に、俯瞰して見るのは大変難しいことです。

脳の仕組みをすべて理解することは大変難しい。しかし「ヒトの脳が処理できる情報はどれくらいまでで、どんなものか」については、様々なことが分かっていますし、明らかになりつつあります。ヒトが見れる光の波長(可視光線の範囲)や、耳で聴ける音の範囲(可聴域)といったものだけではなく、昨今では「目の前に見えている人や風景が、現実のものであると判断する条件やその範囲」についても研究が進んでいます。

これらの研究の成果は、特にここ10年くらいの間に広がってきたVR(Virtual Reality)やAR(Augmented Reality)技術において目ざましく発揮されています――目の前に見えている人やモノが、本当に存在しているかどうか区別できないレベルで提示できる。例えば「相手が本当に目の前に存在していると思って会話をしていたら、実はその人は目の前にいなかった」「しかもその人は、システムが作った単なるエージェントだった」という事例は、これからは日常的に起きるようになるでしょう。

こうしたテクノロジーが一般化すれば、「相手が存在しているかどうか」を判断することはほぼ不可能となり、むしろ「目に見えていて、聞こえているのであれば、それは存在しているのである」という前提で考え、行動し、生活する日がやってくるはずです。

目の前にある人やモノについて、「本当にそこにあるのだろうか?」と疑っても、判断できないのであれば、その存在を信じる(あるいは信じているかのようにふるまう)ほかありません。みなさんは東京スカイツリーのてっぺんにあるアンテナに触れたことはないと思いますが、だからと言って「私は東京スカイツリーのてっぺんにあるアンテナの存在を確認できていないから、それはあるかないか分からない」とはならず、その存在を信じて疑わないでしょう。それと同じように、「テクノロジーが作り上げた、現実と区別ができないもの」を信じても、なんの不自由も無いはずです。

現実を再構築する

ぼくは、理化学研究所にいるときにSubtitutional Reality (SR)という技術を開発しました。SRは10年前の――今考えれば相当プリミティブな――技術を使っていましたが、「目の前にいる人が、本当に存在するかしないか、判断が難しい状況」をじゅうぶん作ることができました。限定的ではありますが、主観的な現実を操作していたわけです。

(「Substitutional Reality」システムの実験風景。入場時の流れから、被験者はすぐ目の前に人がいるように感じている。実際は目の前ではなく隣に立っている)

SRを使って色々な実験をしましたが、自分自身の現実が操作された場合、被験者の心理的な変化はおよそ以下のステップで進みます。

1)「目の前にいると思っていたひとが、本当はいないかもしれない」と気がつくと、混乱します。
2)「全てが嘘かもしれない」と感じると、外界からの反応を拒絶して動けなくなります。
3)しかし、外界からのインタラクションを無視することが出来ずに、再度反応を始めます。

最後のステップに来ると、被験者は現実に重ねられた仮想的な情報に対して、嘘か本当か判断がつかないものの、現実と同じように対処するようになります。仮想的な情報に裏切られることも当然ありますが、このときの被験者は、もはやそれは問題ではない、とさえ感じています。なぜなら、もし本当に存在しているヒトからの問いかけを無視してしまうと、社会的リスクが増してしまうからです。社会的リスクを避けるのは、わたしたちヒトのような社会的な生き物にとって重要な要素であり、それと比べれば、仮想的情報に騙される方がマシだからです。

SRのような現実操作の手法は、現在のテクノロジーを使えば、より洗練された形で実現できるようになります。当然、今後開発されるテクノロジーを使えばなおさら虚実の判断が困難になるでしょう。“操作された情報”が重ねられた現実が、これからの「新しい現実」として、ぼくたちの日常生活の空間になってくるのです。

「新しい現実」にどう向き合うか

それでは、これから大学・大学院に入ろうとしている人や、テクノロジーや科学に携わる人は、この「新しい現実」にどう対処すればいいのでしょうか。

誰かに操作された現実空間だと知りながら、その世界で日常を送るとはどのような気分でしょうか。まるで映画「マトリックス」の主人公、ネオのような状態です。これからのわたしたちは、否応なくそれを享受する一方で、その新しい現実とうまく向き合っていかなければいけません。

考えてみてください、現実を操作しているのは「誰か」です。そして、「誰か」に操作されている現実の中でどのように生活するか。選択肢としては2つです――操作する側に立つか、操作される側に立つか。当然ながら操作する側に立たない限り、何がどこまで操作されているのかを理解することはできません。操作する側に立たないとしても、すくなくともどのような操作が可能で、実際に何が行われているかを知っている方が良いでしょう。

現実が操作されるということは、脳が認知できる世界が自由に操作されてしまうということに他なりません。誰かに操作された世界で生きるということは脳を操作されるということです。そう考えるとあまり気持ちの良いものではありませんね。

これから5~20年以内に、多様な人工的な情報が現実に重ねられた「新しい現実」の世界がやって来るでしょう。その過渡期にある現在、「ヒトの脳がどのような情報提示手法に騙されやすく、現実と勘違いしてしまうのか」を理解することは重要です。テクノロジーがどのような形で脳に介入できるのか、その結果介入のない状態と比較して生活をより豊かにする方法は何か、より幸せになる方法は無いのかを考えるべきです。

現実を科学する

これまでヒトは、天然の環境に最適化して作り上げられた、主観的な「ヒトの環世界」の中で生きてきました。その制限の中で、哲学者や科学者は「ヒトとはなにか」を考え続けてきましたが、環世界の中に閉じ込められたわたしたちにとって、主観的な世界から出ることは不可能でした。意識や無意識に関する考察も堂々巡りです。

しかし、これからは違います。現実と区別することができない操作可能な「新しい現実」を手に入れることで、ヒトは主観世界の外部に共通基準となる環境を持つことができるのです。その操作された空間はまるで“自然な”現実の一部であるように感じられますが、ヒトの意思によって定量的に操作可能なものです。

ぼくがデジタルハリウッド大学の大学院で始めたいと思っているのは、主観世界の制限を乗り越えてヒトを理解するための強い哲学を構築し、そのための技術的検証プラットフォームを整備し運用することです。それをぼくは「現実科学」と呼んでいますが、もしもそれに興味がある人達がいるようでしたらデジハリの僕の現実科学研究室にご連絡ください。所属は問いません。デジハリの学生でも、そうじゃなくても。社会人でも誰でも結構です。

「新しい現実」の、現実科学の世界へようこそ。

デジハリ大学院の「SEAD」カリキュラム説明会が開催予定

(※以下、Mogura編集部)

2年間の基盤科目・専門科目・研究実践科目(ラボ)を通して、コンテンツやビジネスマネジメントが修得できる「SEAD(Science/Engeneering/Art/Design)カリキュラム」の説明会が開催されます。

開催は11月14日(木)の20:00、場所はデジタルハリウッド大学院 駿河台キャンパス(御茶ノ水ソラシティ3F)、参加費は無料です。

今回のカリキュラム説明会では、 各専門分野において最先端の知識と技術を持つ実務家教員陣による、 デジタルコミュニケーションの創出を支える新しい人材、産業、 そして文化を創出するためのプログラムを構成する科目を紹介します。

カリキュラム説明会の詳細、および申し込みはこちらのページから。

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