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VRゲーム・アプリ 2024.06.13

この滅びかけている世界で、わたしたちが写真を撮る理由 『Umurangi Generation VR』が映し出す現実を見つめて

世界の終わりの空とペンギン


(本編より:カモメ)

赤くはないだろう、とまずおもう。最初のステージでの空は、青い。

タイトルに含まれる「ウムランギ」とは、マオリ語で「赤い空」を意味する語だとストアの説明文には書いてある。にもかかわらず、空は澄み切っている。むしろ、赤いのは夕陽に照らされる海であり、そびえ立つビル群だ。


(本編より:ニュージーランドらしいです)

あなたは物言わぬ3名の人物(ひとりは踊り狂っている)とどこかのビルの屋上にいて、ペイントアートだらけのその場所から赤い街を見下ろしている。空には鳥たち。カモメたち。屋上の一部はなぜか浸水していて、仏頂面のヒゲペンギンが浸かりながらどこか遠くを見つめている。


(本編より:ヒゲペンギン)

あなたの仕事は配達員だ。しかし、右手にはなぜかカメラが握られていて、ファインダーを覗けばいつでも写真を撮影できる。

『ウムランギ・ジェネレーション』というゲームにおいて、あなたに課されているのはステージごとに指示されたオブジェクトを撮ること。撮影ミッションの課題は、「イヌ」であったり、「同一フレーム内に収まったイヌやネコ」であったり、「10枚のソーラーパネル」であったり、「2杯のコーヒーと3箱のシリアル」であったりする。なんら特別にはおもわれないものばかりだ。

ともかく、指定されたオブジェクトをすべて撮影してミッションを遂げることで、次のステージへと行ける。

(本編より:撮影ミッションをこなすことで次のステージへ進める)

あるいは仕事などほっぽりだして、写真撮影に没頭してもよい。

レンズの向こうにはセルシェードのローポリで描かれた世界が広がっている。個性的な服装の市民、ネオン眩しい繁華街の看板、やけくそみたいなグラフィティ、鳥たち、ネコたち、しなしなになっているカツオノエボシ、不穏な政治ニュースを報じる新聞記事、なにかを追悼するために置かれたとおぼしい無数のロウソク、映画のポスター、「UN」と書かれたヘルメットをかぶって銃を構えた兵士たち、彼らに抗議するデモ隊のひとびと、徐々に赤く染まっていく世界。

あなたはミッションの片手間に、そうした風景を撮る。望むのなら左手でレンズを広角や望遠や魚眼につけかえ、撮った写真のパラメータをいじって見映えをよくしたりわるくしたりもできる。レンズや調整可能なパラメータ項目はステージクリア時のご褒美だ。そのためにミッションをこなしていくのもいいかもしれない。

街角で無心に踊る若者や検問所にならぶ列に対してシャッターを切っていく。そうして、眼で街や人の細部をみつめるうち、映るものの不穏さに気づきだす。なにかがおかしい。ここではなにかが進行している。


(本編より:国連がNZ北部の町であるパパモアの防衛に失敗したことを伝える新聞記事)

壁のグラフィティで、政治家らしき人物の肖像がこういっていた。「これはただの世界の終わりにすぎない」。

言い忘れたことがある。

この世界は滅びかけている。

“写真を撮影するゲーム”というジャンルについて


(本編より:イカすHMDを装着した男)

ウムランギ・ジェネレーションVR』は、2020年に発売されたインディーゲーム『ウムランギ・ジェネレーション』のVR版だ。ヘッドセットとVRコントローラーによってベースとなったバージョンよりも、「その場にいてカメラのシャッターを切っている」感覚が増幅され、没入感が上がっている。未体験者はもちろん、すでにプレイ済みのユーザーでも、異なる体験や発見を得られるはずだ。

ゲーム内カメラで写真を撮影するゲームの歴史は古い。嚆矢とされるのは、1984年にアタリ社のコモドール64向けに発売された『Nessie』だ。タイトル通り、ネス湖の怪獣ネッシーを撮影するゲームだった。固定された画面内に表示された水面に、ネッシーの影が出現するのをひたすら待ち受ける。


(『Nessie』:画面右上の影が怪獣ネッシー)

その後、同作のシステムを発展させたような1992年のPCエンジン用ソフト『激写ボーイ』なども足跡を残したものの、やはり写真撮影という行為をゲーム化するには、ハードウェアが三次元の奥行きを用意できる時期まで待たねばならなかった。

ジャンルとして日本で認知されるようになったきっかけは、やはり1999年のニンテンドー64用ソフト『ポケモンスナップ』だろう。その後の写真撮影ゲームは3D環境を前提として発展していくことになる。PlayStation 2 時代にはテクモ(現コーエーテクモ)から心霊ホラー『零』シリーズが登場し、 PlayStation 3 では広大なアフリカの自然を舞台に野生動物たちを撮影していくPS3用ソフト『AFRIKA』がリリースされた。

近年ではさらなるゲームハードやPCの性能などの発展もあり、ゲーム内カメラはそれそのものを主眼とするよりも、ゲームにおける遊びの一部として取り込まれていく。いわゆる、フォトモードだ。完全なインゲームカメラの制御を伴うフォトモードを最初に取り入れたのは、PS2用ソフト『グランツーリスモ4』(2004年)だったとされる。


(充実したフォトモードを持つオープンワールドゲームのひとつ、『Ghost of Tsushima』)

そして、いまやAAAのオープンワールドゲームであればどの作品でも、ジオラマ感覚でカメラアイを自由に動かし、被写界深度や画角を自由に調整できるフォトモードがあたりまえに実装されている。そうして、ユーザーがバリバリに作り込んだスクリーンショットをSNSに投稿することでプロモーションの一環にもなる、というわけだ。ゲーム内写真を表彰する The Virtual Photography Awards という賞も毎年催され、いまやゲーム内でそのゲームの宣材写真を撮ったり、ゲーム内のフォトモードの監修を行うプロのゲームフォトグラファーまで存在するほどだ。『VRChat』をはじめとしたメタバース内での自撮りや風景写真の隆盛は、いまさら取り上げるまでもないだろう。

もはや、ゲーム内での写真撮影はメディアアートの一ジャンルとなるまでに成熟した。

しかし、ゲーム内での撮影行為が現実の撮影行為に近づくほど、ある疑問が生じる。ゲーム内で写真を撮ることが快楽になるならば、無理になにかしらの遊戯性を持たせるような、ジャンルとしての写真撮影ゲームは必要なくなるのでは?


(本編より:なに見てんだよ)

というのも、芸術行為はそのままでは遊びにはならない。氷上のダンスであるフィギュアスケートに厳密な採点基準が課せられているように、他のアートメディアをゲーム化するにあたっては、どうしてもゲームのプレイに沿うようにカタにはめねばならない。たとえば、撮影された写真を各種の判定要素からスコアづけしたり、ゲーム内に出現する指定の対象を撮影することを要求されたり……そうしたゲーム化することに伴う制約は、題材となる芸術を現実の芸術行為より退屈にしてしまう。

その退屈さを回避するべく、写真撮影ゲームは撮影と別の要素を付加することでエンターテイメント性を担保した。

たとえば、先に紹介した写真撮影ゲームの先駆である『Nessie』や『激写ボーイ』では、2Dの画面上に十字型の照準が現れる。そうしたもの見せられるとき、わたしたちは写真や映画の世界で使い古されたある比喩をおもいだす。

「写真とは狩りである。殺意なき狩猟の本能である。追い、狙い、定め、そして……カチリ! と撃つ。殺すかわりに、被写体を永遠とするのだ」(クリス・マルケル監督『もしラクダを4頭持っていたら』1966年)

銃撃も撮影もどちらも「Shooting」という。そうした言葉遊びがどれほどの実質をまとっているのかはともかく、多くの写真撮影ゲームは狩猟や狙撃のアナロジーを忍ばせてきた。

『零』シリーズや『水木しげるの妖怪写真館』(1999年、ネオジオポケット)は霊や妖怪といった見えざるものをカメラによって捉え、『AFRIKA』では依頼という名の欲望にしたがって、指定された野生動物を撮る=撃つ。

開発陣が写真撮影の歓びを強調してきた『ポケモンスナップ』ですら、そこは変わらない。任天堂の社長だった岩田聡は開発当時を回顧して「ふつうに写真を撮るゲームとしてつくられていたんですけど、遊びの動機がはっきりしなかったんです。そこで、写真を撮ったらうれしいものは何だろうということで後から『ポケモンを撮る』という方針に、けっこう強引に変えたんですよね」と語っている。この路線変更に「モンスターの捕獲(狩り)をモンスターの撮影に置き換える」という連想が働いていただろうことは想像に難くなく、その連想がユーザーにも共有されていたからこそ広く受け入れられたタイトルにもなった(ちなみに『ポケモンスナップ』はハンティング以外にもテーマパーク的なライドという別のエンタメ要素も含まれているのだが、ここでは触れない)。

十分豊かな仮想世界を構築できるのであれば、ゲーム内での写真撮影は行為としてはおもしろい。しかし、写真撮影だけでは「ゲーム」にはならない。そこに写真撮影ゲームのジレンマがある。

ひるがえって、『Umurangi Generation VR』をゲームにしているものはなにか。

それは物語だ。

現実をうつす物語、物語のうつす現実


(本編より:「KILL FACISTS」)

最初に説明したように、『Umurangi Generation VR』ではステージごとに撮影ミッションが課せられる。それは、「ハンティングとしての撮影」というマナーを踏襲しているようではある。が、写せと指示されるのは、なんら劇的ではないオブジェクトばかりだ。

プレイヤーは寄り道して指示にはないパンクスやネコをパシャパシャ撮りつつも、ステージクリアのためにミッション用のオブジェクトを探していく。この過程こそが重要だ。わかりづらいミッション対象オブジェクトの探索の過程で、さまざまな疑問を持つことになっていく。なぜ、この街(どうもニュージーランドらしい)は「UN」と書かれた壁に囲まれているのか? 街頭で抗議しているデモ隊はなんに対して抗議しているのか? 道端に転がっているカツオノエボシを撮影するとなぜ減点されるのか? この世界でそもそもなにが起こっているのか?


(本編より:国連による厳しい警備)

本作に「話しかける」ボタンはない。NPCたちに近づいても、リアクションを返したり返さなかったりするだけで、物語や世界についてなんの説明もしてくれない。

プレイヤーに可能なのは目撃することだけだ。おもいがけず出会い、じっくりと観察し、意味するところを考え、そして望むのであれば撮影して記録に留める。そうして、この世界になにが起きているのかをプレイヤーなりに読み取っていく。

眼は歴史であるという古人のことばを信じるならば、『Umurangi Generaton』とは観察を重ねていくゲームだ。そして、見ることはVRでこそ際立つ。撮影ミッション自体は導線を形作るための点にすぎない。丹念に見ていくことで浮かび上がっていくのは、切り取られた一瞬と一瞬のはざまに存在する時間のながれであり、つまりはその世界についての物語だ。世界の終わりについての物語。

一般には、物語とはフィクションとして受容される。だが、『Umurangi Generation VR』の開発者にとってはそうではない。


(本編より:「くたばれ、UN」)

いくつかのインタビューを読むと、本作の開発者であるナフタリ(タリ)・フォークナーはゲーム開発者としてやや珍しいほどに、本作のモチーフとメッセージをはっきり主張している。

「Umurangi」、すなわち「赤い空」とはなんなのか。

それは2019年にオーストラリアで起きた大規模な森林火災のことだ。一年にも渡って1000万ヘクタールを燃やしつくし、34人の人間と、約3000棟のビル、そして、5億頭近い動物を殺した史上最悪のこの火災は、それだけでオーストラリアの約1・5年分の二酸化炭素を排出しもした。

この大火災はフォークナーにとっての思想的な契機となった。彼は大規模な危機のもたらす例外状態に便乗し、いかに公権力や大資本が支配を拡大するかの実例を目の当たりにした。彼の母親はこの火災によって家を失ったのだが、焼け出された彼女とその周辺地域のことはニュースとしては無視され、火の手が大都市に迫ってきてようやくテレビは火災の恐ろしさを連呼するようになった。

政府はそうした悲劇を前に祈りや哀悼を述べはするが、火災の原因となった気候変動問題に対してはなんらアクションを起こさない。COVID-19やブラック・ライブス・マター運動でも、同様の現象が生じた。むしろ、そうした悲劇からの国民の保護を名目として、統制を強めようとしているのではないか、とフォークナーの眼に映った。


(2019年のオーストラリアの森林火災。火勢がシドニー近郊にまで及ぶ様子:ウィキメディア・コモンズより引用

かつてジャーナリストのナオミ・クラインは『ショック・ドクトリン』という本のなかで大災害後の復興期に民主的プロセスをすっとばして新自由主義的な政策を導入しようとする権力の存在を指摘したが、そうしたメカニズムをフォークナーは実体験から学んだのだった。

「新自由主義とは大問題を前にして、あなたを心地よくいつづけさせようとする力のことです」とあるインタビューで彼は語る。「『Umurangi Generation』では”ある(世界に危機をもたらす)存在”が登場するのですが、それはよくよく見れば、私たちにとって”初めて起こったこと”ではありません。社会にはこのような危機がある、という現実に私たちはだんだんと慣らされていくのです」。

つまりは、ゲーム中に登場する「それ」は気候変動や戦争を筆頭とした、私たちをとりまく危機の象徴であり、作中で描かれる光景はその危機を利用する権力と人々との関係だ。
作中で頻繁に登場する謎めいたヒゲペンギンも、そうした文脈において解釈されるだろう。南極大陸に生息するヒゲペンギンは、この半世紀で八割も生息数を減らしているという。物言わず虐殺されていくペンギンは人間の街にたたずむだけでプロテストの表明となる、というわけだ。

本作はウムランギ・ジェネレーション、「赤い空の世代」に捧げられている。赤い空を見ることになる世代とは、すなわち、人類最後の世代のことだ。

そう。この世界もまた滅びかけている。

このゲームの物語は、我々の世界の物語と重なっている。

わたしたちはみなウムランギ・ジェネレーション


(本編より:ネコ)

もっともこうした政治性はインタビューなど読まずとも、ゲームをプレイするだけでなんとなく感得できる。あまりに直截的な現実世界との呼応は、それこそゲームとしての逃避的な愉しさを削いだりしないだろうか?

罪深いことに、というべきか、描かれるプレ終末世界になんら啓発されなかったとしても、本作は楽しめてしまう。世界の終わりを前にして、なにかしら珍奇な対象を見いだし、撮影し、加工することについ没頭してしまう。次はこのレンズに変えてみたらどうだろう? コントラストや彩度を落としてみたらどうだろう? このコ、さっきのポーズをもう一度とってくれないかな?

私たちはどうしたって遊べてしまうし、愉しめてしまう。そのためのツールとしてもカメラは用意されている。ターゲットに迫り、世界を切り取り、際立たせると同時にそれ以外を覆い隠す。100万の兵士が殺し合う戦場にあって、狙撃手がつねにたったひとりを見つめるように。

2005年、Counter Strike、Wolfenstein、Quake IIIなどのFPSゲーム内で撮影された「戦争写真」の展示会を開いたマルコ・カディオリはこういった。「実際の戦争写真がビデオゲームに似ているのと同様に、ビデオゲームの戦争写真は実際の戦争写真にきわめてよく似ている」。


(本編より:チルタイムの兵士たち)

いうまでもなく、戦争を題材にしたゲームは、現実に存在する戦争のイメージ(現場から流れてくるそれらが「無加工」であるというは多くの場合、幻想にすぎない)から作られる。私たちはそんなゲームが大好きだ。狙い、定め、撃つことが。

銃を撃つにしろカメラのシャッターを切るにしろ、ゲームのコントローラーでは同じ操作だ。VRのコントローラーに持ち替えたとしてはそれは変わらない。『Half-Life: Alyx』で銃を撃つボタンと、『Umurangi Generation VR』でシャッターを押すボタンはどちらも「トリガー」ボタンだ。「Shooting」の言葉遊びは、仮想的な空間において偶然に一致する。

その偶然は悲劇なのかもしれない。ただ、祝福でもあるのかも。

開発者が自身の認識する現実の似姿としてゲームを作ることも、その真剣なメッセージを孕んだ世界でプレイヤーが細部のアクションに耽溺することも、なんら矛盾なく成立する。結局のところ、あるイメージとの距離とはどこまでも個人的なものだ。

なんとなれば、現実に目を向けろというメッセージを有したゲームで遊ぶこと自体が現実逃避でありうるし、逆に現実逃避が現実に目を向けるきっかけにもなりうる。

写真撮影行為を遊びに加工したように、ゲームはあらゆる現実や人の想いを貪欲に呑みこんでゲーム化する。一見極悪だが、逆に言えばわたしたちはゲームプレイを通じて知らずしらずのうちに現実や人の想いのかけらを、摂取していることにもなる。

なにかを受け取っている。

ヘッドセットを取ってもいい、取らなくてもいい。

見上げてみよう。

果てにある今このとき、朱に染まりつつあなたの空は、なにを映しているだろうか。

【参考文献】
https://www.gamedeveloper.com/design/using-photography-to-document-the-end-of-the-world-in-i-umurangi-generation-i-#close-modal
https://www.vice.com/en/article/pkdvgv/how-umurangi-generation-captured-2020s-despair-and-neoliberal-decay
https://okikata.org/altphoto/in_game_photography.html
https://gamerant.com/games-best-photo-mode-features/
https://www.gameinformer.com/b/features/archive/2017/11/22/opinion-photo-mode-matters-in-modern-gaming.aspx
https://www.nintendo.co.jp/wii/interview/rk5j/vol1/index4.html
https://www.nies.go.jp/whatsnew/20210506/20210506.html
http://2013.xcoax.org/pdf/xcoax2013-carita.pdf
https://www.researchgate.net/publication/332579591_Camera_Ludica_Reflections_on_Photography_in_Video_Games
https://en.wikipedia.org/wiki/Photography_game
https://ecrito.fever.jp/20200729210732
https://store.epicgames.com/ja/news/how-the-virtual-photography-awards-celebrate-digital-artistry
https://www.famitsu.com/news/202108/01225326.html


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