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VRChat 2024.10.01

イーロン・マスクに5000万ドル払わなくたって、我々は宇宙の果てを歩ける【VRChatワールド探訪】

遅かれ早かれ、われわれは太陽系の果てに行きつき、絶対の深淵の彼方を眺めるだろう。そのときこそ、われわれは決めなければならないのだ。われわれが星に行くのか、それとも星がわれわれのところに来るまで待つのか、を。

アーサー・C・クラーク、山高昭・訳『宇宙文明論』ハヤカワ・ライブラリ

To the Moon

アニメ『サイバーパンク2077:エッジランナーズ』で、月はある種の天国として夢見られる。ヒロインのルーシーは「いつか月に行くのが希望」と語り、主人公の少年デイビッドは「いつか連れていく」と彼女と約束を交わす。ふたりにとって月は月であって月ではない。それは「ここではないどこか」の象徴だ。大都市のスラムのじべたをはいずりまわり、絶望と汚穢から逃げつづける日々のいつかの出口であり、終着点となるはずのもの。

VRChatの月面再現ワールドでもっとも人気を博しているのは、この『エッジランナーズ』コンセプトのワールドだ。そこでは同作のテーマソングともいえる「I really want to stay at your house」が流れ、アニメのように巨大な地球が空に輝いている。

わたしもまた、月にいる。「The Moon」(by DekaMaster100)は典型的な月面再現ワールドだ。ここは『エッジランナーズ』のワールドのような甘さはない。灰色の地面に漆黒の空。果てに真白に光る太陽。モノクロで映した砂漠のようだ。音楽は聞こえない。

このワールドに降りたって3秒で悟れる真理がある。宇宙にはなにもない、ということだ。惑星の地表をさまよって、さまよいつづけて、やがてマップの端にたどりつく。そこから先は本物の虚無だ。

なにもない宇宙には、なにかがある。そのなにかとは人間の想像力によって生み出される。17世紀の天文学者、ヨハネス・ケプラーは「夢(Somnium)」という小説のなかで、月には「怪物のような大きさ」の「蛇のような種族」などがいると書いた。20世紀の小説家、アーサー・C・クラークは『2001年宇宙の旅』で、月のクレーターに土星の衛星イアペトゥスに電波を送るモノリスがあると書いた。どちらも、その時代では宇宙に関して指折りの有識者たちだ。かれらは、おそらく、「月になにもない」ことなんて百も承知だった。それでもかれらは夢見た。宇宙とは、ここではないどこかであり、おもいも寄らないなにかがあるはずだ、と。

今は2024年だ。60年前にJ・F・ケネディが誓ったような意味ではいまだ月は征服されてはいないけれども、モノだけはやたらに送りこまれていて、国旗だの月面車だのが月面にはあるということに(あなたが空を巨大な映写スクリーンであり宇宙など実在しないと主張でもしていないかぎり)なっている。

だから、そうだ、「なにもない」などということはないはずだ。なにかはある。想像によって生み出されたものではなく、現実にもとづくなにかが。それを確認することで、月が『エッジランナーズ』で夢想されたような出口ではなく、地上と地続きの現実なのだと再確認にすることができる。夢はないけれど、実際にそうじゃないか? けっきょくのところ、成層圏の向こうに行けるのは、あらゆる果てへのアクセス権がそうであるように、金を持った国家か、金を持った企業だけだ。

だからここにも……。

おっ、あのたなびきそうでたなびかない陰は……もしや……?

……。
…………。

忘れていた。VRChatは、あらゆる夢想を許容する空間だった。とっくにここは、「ここではないどこか」だ。

イーロン・マスクに5000万ドル払わなくたって宇宙へは行ける。

以前にも紹介した軌道エレベーターワールドの老舗「Space Elevator」(by lunar eclipse)は、いまでもわたしのお気に入りだ。宇宙の景色が感動的なのではない。どこまでも高く高く上っていく、その運動が快楽なのだ。垂直方向への上昇はどこまでも人工的で、自然に反している。神に逆らっている。だから、最高にパンクで気持ちがいい。

望むのなら、地球を見下ろして、青い宝石を賞味するのもいい。とはいっても、その経験は、「本物」の体験から得られる感情に劣るのではないか、と疑う向きもあるだろう。そういうひとはドキュメンタリー映画『僕が宇宙に行った理由』を観るといい。前澤友作は宇宙滞在後の変化について「イヌを飼いたくなった」と述べている。つまり、イヌを飼いたいという気持ちを抱いて暮らしているひとは、もう宇宙に行って帰ってきたようなものだ。

火星に住むつもりかい?

「Life on Mars」(by Ien°)では火星に住める。天も地もくすんだ砂の色で、月面同様、もうほんとうになんにもない。

それでも火星は昔から地球人の移住先候補ナンバーワンの座に君臨してきた。それはある勘違いからはじまった。1877年、火星は地球に大接近した。このときイタリア人天文学者のジョバンニ・スキャパレリは望遠鏡で火星を観察し、火星の地図をつくりあげた。

この地図において、スキャパレリは自然に形成された筋状のもりあがりを「Canali」と呼んだ。イタリア語で「溝」などを意味する単語だ。ところが、この「Canali」がフランス語や英語に訳されるさいに「Canal」と訳されてしまった。よく似た単語だが、「Canal」には「人の手によって作られた運河」という含みがある。これを真に受けた人々が「火星には運河を作れるほどの文明がある!」と勘違いして、ちょっとした火星ブームが巻き起こった。そのひとつが、火星人侵略SFたるH・G・ウェルズの『宇宙戦争』(1897年)というわけだ。そのころは、夢があった。

(火星に知的生命体がいると唱えたパーシヴァル・ローウェルの描いた火星の運河)

火星について書かれた最初期の小説、パーシイ・グレグの『黄道を越えて』(1880年)によると、火星は草地や牧草地に覆われていて、「アーリア人の血統によく似た」身長140センチほどの火星人たちが高度な科学文明を築き上げているという。そして、エドガー・ライス・バローズの『火星のプリンセス』(1912年)によれば、火星には赤銅色の肌と石炭のように艶やかな黒髪を持つ王女さまがいて、あなたと(もしヴァージニア出身の真のアメリカの男であれば)恋に落ちてくれる。

百年前には火星もまた想像力の天国だった。けれど、1971年にソ連のマルス2号が地球製人工物として初めて火星に到達するよりはるか以前から、人類は火星に対して幻滅していたようだ。1950年のアーサー・C・クラークの『火星の砂』は火星の環境をリアリスティックに描いた初めての作品といわれるが、そこにこんな記述がある。

ルポを書くために宇宙船に乗りこんだ小説家の主人公が過酷な火星に音を上げ、「火星の生活は、肉体的にも精神的にも非常に健康的なものだとおもっていた」と愚痴をこぼす。

それを見た宇宙船のスタッフのひとりが、こう皮肉る。

「本に書いてあることを、全部信じちゃだめですよ。どうして火星なんかへ行きたがる人間がいるのか、僕には見当もつきませんね。変化がなく、寒くて、エドガー・アラン・ポウの中に出てくるような、半分枯れたような植物が生い茂っているだけなのに。われわれは何百万もの金を火星につぎこんで、まだ一文だって取り返しちゃいないんですよ。自分から火星へ行きたいだなんて言い出すやつは、頭を調べてもらったほうがいいんですよ」

このワールドに降り立った人間なら、同意できる主張だろう。なんなら「半分枯れた植物」さえここにはない。


(マップの果て)

イーロン・マスクによれば移住費用を地球における新築住居一軒ぶんくらいに収めれば、火星への移住が進むのだという。にわかには信じがたい。だってこんなに殺風景。フィクションのなかでは地球にやってきてマーズ・アタックをしかけてくる免疫力のないタコの住む星だけれど、タコどころか生命の痕跡すらない。SF映画『DUNE』とこの火星の違いは、デカいサンドワームやティモシー・シャラメが出現するかくらいしかないのではとおもわされる。

こんなところで気持ちを前向きに保つのはむずかしい。映画『オデッセイ』(原作小説は『火星の人』)のマット・デイモンがいかに偉大な人間であったかは、ここにくればわかる。生きる気力すら奪ってしまう、赤さび色のさみしさ。

宇宙の果てのわたしたち

「VR宇宙博物館 コスモリア Cosmoria[EN ⁄ JP ⁄ KR]」(by vsp_vrc)では宇宙と宇宙開発の歴史が学べる。スペースシャトルやロケット、人工衛星、宇宙ステーション、そしてスーパーカミオカンデ。そこにあって、間近に観察できる。わたしたちはもう月に行くために宇宙へ出る必要がないどころか、宇宙博物館を訪れるために家を出る必要さえない。星はもうわれわれのところまで来ている。

けっきょくのところ、わたしたちは他の世界を必要としないのだろうか。スタニスワフ・レムの『ソラリス』でいうように、「われわれに必要なのは鏡」だけであり、「他の世界なんてどう扱えばよいのかわからない。いまある我々自身の世界がひとつあれば十分なのに、自分たちではそれをありのままに受け入れることができない」。

人類は宇宙博物館を持っているけれど、宇宙の方は人類博物館を建てようとはしない。リチャード・ドーキンスもスタンリー・キューブリックも宇宙が唯一抱く可能性のある特性は「無関心」であるという見解で一致している。

博物館内の展示に「なぜ人類は、危険をおかしても宇宙を目指すのか?」と題されたパネルがあった。「人類は危険を冒す事で進化し、大陸を超え、世界中へ拡がり、文明を築いてきました」。

自身も火星にまつわる小説『プロジェクト・マーズ』を執筆した”ロケットの父”ヴェルナー・フォン・ブラウンはアポロ11号の打ち上げ前夜にこうスピーチした。「明日の旅で我々が求めているのは、まさに地球上の未来への鍵です。我々は人間の精神を拡張しています。我々は神から与えられた脳と手をその限界まで拡張しており、そうすることで全人類が恩恵を受けるでしょう」。

そして、『ソラリス』の一節。「われわれは宇宙を征服したいわけではなく、ただ、宇宙の果てまで地球を押し広げたいだけだ」。

「自分」を未知の空間へと拡張すること。宇宙においてそれは冒険と呼ばれ、地上においてそれは侵略と呼ばれた。

しかたないのかもしれない。自分に似ていないものを愛するのはむずかしい。荒れ地や他人の家に鏡を置くこと。それを人は想像力という。

建築家で思想家のポール・ヴィリリオはこういった。「人間の先に行くことはできません。人間は結末であり、世界を終結させているのです。人間は世界に終止符を打つ存在です。人間は世界を閉じるのです。人間は果てです」。

だから、そうだ、ここが宇宙の終端だ。天国も地獄も夢想も現実も、すべてひとの頭のなかにある。VRChatはそんなひとの頭から漏れ出したなにかでできている。そのワールドは自分の領域には含まれないどこかへとつながっているような気もする。人間は果てかもしれないが、その果ては無限の奥行きをもっている。

その果ての果てをめざして、今日も電子の月を、電子の火星を歩きつづける。

【参考引用文献】
アーサー・C・クラーク、平井イサク・訳『火星の砂』ハヤカワ文庫SF
スタニスワフ・レム、沼野充義・訳『ソラリス』ハヤカワ文庫SF
フレッド・シャーメン、ないとうふみこ・訳『宇宙開発の思想史 ロシア宇宙主義からイーロン・マスクまで』作品社
ヨハネス・ケプラー『ケプラーの夢』講談社学術文庫
ポール・ヴィリリオ、土屋進・訳『黄昏の夜明け』新評論
宮本英昭「火星ーーウソカラデタマコト」東京大学総合研究博物館(https://www.um.u-tokyo.ac.jp/exhibition/2010MARS_description1.html
碓氷早矢手「Cowboys on Mars」Cafe Panic Americana(http://www.tatsumizemi.com/2000/02/cowboys-on-mars-by.html)


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