様々な業界でVR活用が進んでいますが、BtoC分野ではまだまだ具体的な結果が見えにくい昨今。こと、マーケティングやブランディング戦略においては、他のデバイスに比べて成功事例が少なく、導入に二の足を踏んでいる企業も多いのではないでしょうか。
このような状況の中、ウェディング業界の老舗・八芳園(東京白金台)では2025年3月から、改修工事に伴う全館休館を乗り越えるべくAppleの空間コンピュータ「Apple Vision Pro」を導入し、片目4Kの高解像度なVRで式場を体験してもらう施策を実施しています。結果、結婚式場や披露宴会場の平均成約率が5ポイント上昇。実に商談の40%が成約し、「Apple Visin Pro体験が式場選びの決め手になった」とのコメントが体験者から寄せられています。同じく、法人向け会議や宴会場の利用も、前年同月比30〜40%増の成約率を達成しています。
会場のある建物に一歩も入れない全館休館のためリアルな会場案内ができない状況で、なぜ過去実績を上回る成果を出せたのか。苦境を逆手に取り、Apple Vision Proのポテンシャルを最大限に引き出したマーケティング施策を体験するため、現地を取材しました。
VRで披露宴成功のイメージに没入。気持ちが自然と高まる体験設計
八芳園は、東京都港区白金台にある創業82年の老舗ウェディング会場です。現在婚礼会場や結婚式場は14会場、広大な日本庭園が人気です。
まずは早速、筆者も八芳園の新しい取り組みである【HAPPO-EN EXPERIENCE SHOWCASE】を体験させてもらいました。
本取り組みは、全館休館に合わせ2025年3月から実施されています。式場見学や相談のため来訪したお客様に対し、Apple Vision Proを使って、空間ビデオ動画と360度写真を使って八芳園の魅力を伝えるというもの。来館ベースでの総体験組数は開始後約3ヶ月で約1000組に達しています。
体験場所は八芳園敷地内で最も古い建物である「壺中庵」です。普段は料亭の1部屋を、休館に伴ってVR体験スペースとしたとのこと。暖簾をくぐると園庭が見渡せる和風のスペースに、360度回転可能なゲーミングチェアが並んでいます。
ガイド担当スタッフの案内で園庭の前に着席すると、セットアップ開始です。Apple Vision Pro含むVRヘッドセットは、最初に視点の設定が必要となります。慣れない初心者はこの設定でつまづくことが多く、さらにApple Vision Proはコントローラーなしでの操作のため、難易度が高め。オペレーションはどの体験施設にとっても課題となりますが、スムーズにセットアップできました。
それもそのはず、八芳園では導入開始直後から継続的に総支配人も接客に参加。スタッフ全体で改善を繰り返しつつ、ロールプレイングを実施し、社内テストに合格しなければガイド担当になれない運用となっています。ウェディング業界ならではのホスピタリティ、ノウハウが活かされています。
体験は、スタッフが手元のiPadを使ってガイドしつつ進みます。このiPadは体験者のApple Vision Proと同期しているため、体験者が見ているコンテンツはもちろん、体験者の視線もリアルタイムに把握できるようになっています。
コンテンツUIはApple純正のSafariブラウザ画面に似ており、現実空間と重ね合わせた視野にコンテンツ画面が浮かび上がります。画面には8つの会場タブが並び、各会場ごとに空間ビデオや360度写真が複数用意されており、会場を自由に”見学”できます。
セットアップ終了後、スタッフの案内でおすすめの会場が紹介されます。まずは360度写真を閲覧。見たいコンテンツを選択すると、写真に入り込むように視界が切り替わります。室内の奥行きや天井の高さを体感でき、人間が写っていない装飾が施された会場の様子を隅々まで確認できます。
Apple Vision Proの得意な高精細な空間表現で、歪みやちらつきも感じませんでした。360度写真なので上下左右はもちろん、座っているゲーミングチェアをぐるりと回して後方も確認可能。画角の拡大や視点の自由移動はできないため、同じ会場でも異なる視点の写真が用意されていました。新郎新婦の視点、親戚参列者の視点、一般の参列者の視点などあらゆる角度から会場を見渡せます。
体験の間、ガイド担当スタッフは常に体験者の横に立ち、声で会場の特徴や見所を余すことなく紹介していきます。体験者は当日の入場の動線や、参列者の位置を360度写真で確認し、その後に空間ビデオを視聴する流れです。
空間ビデオは顔前面180度の動画となっています。新郎新婦や参列者が会場に存在する状況で撮影されており、当日の結婚式や披露宴の雰囲気を体感できます。また昼夜のシーン両方が用意されており、体験者の好みに合わせて視聴可能です。
360度写真と比較すると、夜の映像は多少ちらつきを感じましたが、筆者にはあまり気にならないレベルでした。空間ビデオは何よりも雰囲気に没入できる点が魅力的。見学というよりも、リハーサル体験・再現といった言葉の方がぴったりくる印象でした。
特に筆者が感動したのは、半屋内専用テラスと屋外庭園がつながっている会場での披露宴演出動画です。
夜、ほのかな照明の灯りのなか、庭園で入場を待つ新郎新婦視点から動画は始まります。大きな拍手の中、会場と庭園を区切るカーテンと窓が順に開き、テーブル席を埋める多くの参列者の表情が見て取れます。「おめでとう!!」「きれい!」といった祝福の声がかけられながら、新郎新婦(=筆者)が入場。立ち上がって拍手する参列者も。この演出には、まったくの他人なのに、思わず涙腺がゆるんでしまうほど。「この体験で得た感覚は、会場決定の決め手に十分なりうるな」と納得の演出でした。
空間ビデオにはスタッフおすすめの演出の様子を選んでおり、この夜の入場シーンはかなり人気だそう。
他にも、ドレスや和装ごとの婚礼儀式や入場シーン、ウェディングケーキ入刀や酒樽の鏡開き、参列者への料理サーブ場面など様々な演出のシーンが空間ビデオで視聴可能です。
全体の体験は約30分ほどで終了。非常にわかりやすく、「ヘッドセットを装着し、コンテンツを見てもらってそれで終わり」ではない方式のため、体験者のニーズに合わせた体験設計となっていました。
何より結婚式・披露宴への期待感が高まること間違いなし。筆者も婚礼や披露宴を行った経験がありますが、会場を決める一番の決め手は「ここなら大丈夫、理想の挙式・披露宴ができる!」というイメージが沸くかどうか。
VR体験で感情を喚起させ期待値を最高潮に持っていき、自身のイメージと八芳園の演出を強く接続させる。VRマーケティング施策のお手本を見たような体験でした。
なお、撮影はボックスカメラ(Panasonic BGH1)と一眼レフカメラにて実施。映像素材を編集後、180度の空間ビデオや360度テクスチャに変換し、VRコンテンツとして構成したとのことでした。
成功要因は見せるだけではない「リアルな体験」の提供
【HAPPO-EN EXPERIENCE SHOWCASE】を体験後、VR導入の旗振り役を担った株式会社八芳園 取締役総支配人 関本敬祐氏(以下、関本)にお話を伺いました。
––休館以前から、マーケティング戦略にVR体験を取り入れようとの考えがあったのでしょうか。それとも休館時の課題解決のための一つの手段として、VR体験が見つかったのでしょうか。
関本:後者です。私自身は以前からVRヘッドセットの「Meta Questシリーズ」や、VR活用サービス等を認知していましたが、その時点では、導入するメリットが思いあたりませんでした。
私たちは、ブライダル業界でも特に感情に訴えるマーケティングやブランディングでお客様に接している企業です。どれだけお客様に八芳園を気に入っていただけるかを重視しています。「商品は人」との考え方でリアルな接客を重視してきましたし、その分、業界内でも特にVRとは縁遠い存在でした。
しかし休館を前に、いかにお客様が満足し、安心した状態で会場を選んでいただけるかという課題に直面しました。会場を選んでいただく最も重要な提案の際に、紙1枚では十分に伝え切れない。そこで「動画で披露宴の中に入り込むような体験はできないだろうか」と考えたんです。その時に「VRならできるのでは?」と思い至りました。
––空間ビデオと360度画像をコンテンツとして採用した経緯は?
関本:私がやりたかったのは、披露宴会場にお客様に没入していただく体験であり、それがマーケティング上、最も効果的だと考えていました。ちょうどその頃、3DCG技術を得意とする映像スタジオさん(株式会社KASEEN)に相談していましたが、私の考えを伝えると「会場を撮影して、VR映像を制作した方が早い」との結論に至りました。
幸運にも2月は準備休館期間で、全会場で撮影が可能でした。八芳園の社員もエキストラとして参加して、3日間かけて撮影しました。なお、リニューアル後に大きく内装が変わる会場の一部はCGで再現しています。
––撮影したときにこだわった部分はありますか?
関本:どこから会場を撮ると最も美しく見えるかについては、スタッフのノウハウと知識が活かされています。スタッフたちは、明確に各会場の魅力やポイントを把握しているので、そこに合わせてプロモーションチームと制作チームが協力して撮影を行いました。
また、視聴環境にもこだわりました。椅子の選定を慎重に行い、首までしっかり支えながら振り向けるタイプを選んでいます。
––高価格帯のApple Vision Proを機材として選ばれました。これは映像の力を最大限に引き出せるという判断でしょうか?
関本:はい、比較検討の段階で素材の差も影響したかもしれませんが、他デバイスとは画質に明確な違いがありました。また、VR酔いもほとんどありませんでした。正直迷いもありましたが、実際にガイドするスタッフにも体験してもらい、彼らの意見も踏まえてApple Vision Proに決めました。
私たちが提供する結婚式というサービスが平均で300万円以上する点も踏まえて、会場をお客様にご案内する際、スタッフは多大な労力をかけて提案を行います。その熱量に見合った高いクオリティの体験を提供する必要があると考えたのも決定要因の一つです。
––導入にあたって、現場からは戸惑いはありましたか?
関本:スタッフは当初、具体的なイメージが持てず戸惑っていたと思います。正直なところ、導入して稼働し始めてから1、2週間ほどは、私自身も自信がありませんでした。
「このコンテンツはすごい」と感じながらも、会場を決定するプロセスにおいてお客様の満足度を得られるかどうか、半信半疑でした。「空間を理解していただく程度の使い方ができれば良い」ぐらいの気持ちでしたが、結果的に予想を超える反響があり、現在は非常に驚いています。
––予想を超える結果と言うと?
関本:全館休館は2025年3月1日から始まったのですが、3月の第1週目で土日の受注目標を達成しました。当初は初速の勢いと慎重に受け止めましたが、第2週目になっても順調だったため、月末まで一旦様子を見ることになりました。
結果、3月の成約目標を達成し、さらに4月の成約実績は前年同月を超えました。5月は最終週に入ろうとしていますが、目標に対して10組プラスの状況で推移しています。VR施策実施開始から、平均成約率が35%から約5ポイント上昇し、40%になりました。
––かなり順調ですね。VR体験が成約率をアップさせたと考えていますか?
関本:完全休館のため、会社としては前年比60%程度で下回る達成率を見込んでいましたので、私たちも驚いています。もちろん外部の市場環境も影響していると思いますが、それを考慮したとしても非常に良い結果が出ました。
ご契約いただいた方からも、「VR映像が決め手になった」とのコメントを多数いただいています。また意外だったのが、「安心しました」という声が多く聞かれたことです。
これまで私たちは、熱意を持って結婚式場や披露宴会場をリアルに紹介する点を重視していましたが、実はお客様はVRの再現性に対して非常に高い信頼を寄せていました。
会場選びに納得感だけでなく、安心感まで持っていただける反応を受けて、VRは継続的に活用できる手法だと考え始めました。
––休館期間が終わった後も、この取り組みを継続していくのでしょうか。
関本:はい、継続します。ウェディング業界では、会場が稼働している日に見学に来られるお客様が多いので、お目当ての会場の見学時間を過ぎてしまう場合もあります。そういった問題の解消にVRが役立つと思います。
一方で、VRだけで済ませるという考えではありません。リアルとバーチャルを組み合わせて活用することで、さらに効果を高められると考えています。
現在、八芳園では「インスピレーションサロン」と名付けた体験型のサロンを計画中です。成約された方に対して、装花アトリエや試食カウンター、VR視聴専用スペースを常設したいと構想しています。

––「インスピレーションサロン」は、お客様の「当日の様子が知りたい」欲求を満たす施設でしょうか?
関本:そうです。お客様の結婚式後のアンケートで一番多いのは「当日まで不安だった」との声です。私たちはこの不安をどうにか解消したい。そうすれば、スタッフ達も自信を持って付帯商品の提案もできます。
今回のApple Vision Pro導入の成功は、「見る」ことを「リアルな体験」として提供できた点にあると考えています。VRが満たせる欲求は、これまで接客で満たしてきたそれとは異なる性質のものです。従来の会場見学では、状況説明でしか演出の魅力をお伝えできませんでしたが、VRでは新郎新婦側の視点でリアルな体験を提供できるようになりました。
VR体験を終えると感情が高ぶっている状態になるため、通常の見学とは異なる感覚を持っていただけるとも感じています。実際に、導入以後は特にカーテンが開く演出シーンなど、人気のシーン会場が継続的に予約が取りにくい状態になっています。
今後は、Apple Vision Proの事業横断での展開も前向きに検討しており、ウェディング事業だけでなく、MICEも含めた会議やカンファレンス、宴会など法人向けイベントの施設運用でも活用を進めていきたいと考えています。
––すでにMICE事業での導入は進んでいるのでしょうか?
関本:導入しています。受注も好調で、前年同月比の130%から140%の成約率で推移しています。ウェディングは情緒的な要素が多く、会場だけでなく衣装や料理など判断材料が多岐にわたります。一方、法人施設利用では、設備や会場の物理的な特徴が重要となりますから、Apple Vision Proで再現できる空間の距離感や規模を伝えるための高画質が強みになっています。
今後は、海外から日本への誘致を目的としたプロモーション活動が年数回海外でありますので、そういった場でもApple Vision Proを持っていってVRを活用していきたいと考えています。インバウンド需要をつかむためにも、自社庭園などの季節の風景をリアルに撮影し、VRコンテンツとして提供することも計画しています。
––婚礼数自体は減少傾向にある中、Apple Vision Pro活用の多角化を進めているのですね。
関本:日本全体では少子高齢化により婚姻数は減少していますが、実は八芳園における婚姻数は低下していません。結婚式を挙げる方の総数は減っていますが、式を挙げたいと考える方は一定数いらっしゃいます。結局は「選ばれるかどうか」という点が重要です。選ばれ続けるために、商品自体の質を高める努力や価値を新たに創造する挑戦が不可欠だと思います。
「新しいことができるのは八芳園だからだ」と言われることもあるんですが、我々としては、この取り組みを広くオープンにしてウェディング業界や他の業界の参考事例にしていただき、一緒に新しいことに取り組んでいくきっかけになればと考えています。
今回のVR活用もそうした挑戦の一つであり、会社全体がこのような新しい挑戦をサポートし、応援する体制を整えてくれていることに感謝しています。
VRデバイスでユーザーの隠れた欲求を満たす
米大手ホームセンターでは、Apple Vision Proを使ったカスタマイズ提案が店舗で行われています。今回の八芳園の取り組みと近い施策です。
VRデバイスを「商品を魅力的に訴求し、購買につなげる没入ツール」として、見直す企業が出てきています。様々な活用事例がありますが、VRを使って、従来では満たせなかったユーザーの欲求を満たす体験設計ができるかどうか。今回の八芳園の取り組みから生かせることは多いのではないかと感じる取材となりました。今後の八芳園の取り組みにも注目です。












